ITライター上倉賢のAll About

IT系ライターによる日常

AI PC向けSoCのバッテリー駆動時間比較 2024年後半版

AI PCというのはAIが使えるPCという意味のマーケティング用語ですが、このAI PCと呼ぶには使用しているSoCの機能が一定以上ある事が目安となっています。

そのあたりの基本的な情報と、この世代で一気に向上したバッテリー駆動時間を解説します。

AI PCとは

AI PCとは従来のPCの機能に加えてAI関連機能もPC内で利用出来るPCです。

当然ながらAIしか使えないわけで無く、従来のPCでもクラウドにアクセスすればAI機能は使えますが、PC内でAI機能が完結出来るPCです。

クラウドで使用するAI機能は、利用料金が別途かかったり、インターネット接続が必須とか、利用に制限があり、データをクラウドに送る必要がありセキュリティ上のリスクもあります。

PC内で使えるAI機能はクラウドに比べると異なりますが、様々なソフトウェアがAI機能を取り込んでおり、従来は面倒な作業が必要だったことも、AIが自動的にPC内だけで行うようなケースも増えてきます。わかりやすいのが適当に描いたイラストを一瞬で清書するような機能です。

AI機能がPC内だけで完結して利用出来るようになることは、今後のPCの活用で非常に重要な意味を持ち、今後のPC選択ではAI PCを選ぶのが当たり前の選択肢となります。

AI PCのAI性能の定義

AI機能をPCで利用出来るPCはどう定義するかによりますが、バッテリー駆動出来る気軽に扱える薄く軽いPCでAI機能を扱えるPCです。
例えばNVIDIAGPUを搭載したゲーミングPCやワークステーションでもAI機能は以前から利用出来ます。これはAI性能も非常に高いですが、高価でバッテリー駆動時間に問題があり、大きさや重量面でも問題があります。

薄型軽量の製品でAI機能を使えるPCが2023年から順次発売されています。
2024年前半までに発売されていたAI PCももちろんAI機能は使えますが、AI機能を使うための性能基準がはっきりしていませんでした。

2024年5月にMicrosoftWindows OSで利用出来るAI機能のCopilot+ PCを発表しました。この動作要件としてSoC内のNPUの性能を40TOPS以上と設定しました。

SoCとは中心的な演算機能のCPU、グラフィック機能のGPU、AI機能のNural Processing Uniteの略のNPUを統合したSystem on Chipの略で、従来はそれぞれ別のチップだった物を統合した低消費電力動作するチップです。

40TOPSとは1秒間に40兆回のAI関連の演算が出来る性能という意味です。

2024年末現在のAI PCはこの性能を満たした、WindowsならCopilot+ PCとして販売されている製品を購入することが目安となります。

40TOPS以上を実現するSoC

NPUの性能が40TOPS以上のSoCは2024年の正式発表順に、Qualcomm Snapdragon Xシリーズ、AMD Ryzen AI 300シリーズ、Intel Core Ultra Series 2があります。

NPU性能は

それぞれのNPU性能は

Qualcomm Snapdragon X - 45TOPS
AMD Ryzen AI 300 - 50TOPS
Intel Core Ultra Series 2 - 48TOPS

となっており、違いはありますが、はっきり言うとどんぐりの背比べの状態です。
NVIDIAGeForceなどは2024年現在で数百TOPSであって、数TOPSの違いではほとんど影響を受けないですし、細かくみるとNPU自体も何の演算が出来るかは異なっています。
また、今後の急激にNPU性能は伸びるので、現時点でNPUのTOPS値の小さな違いを比較してもあまり意味が無いです。

比べるならSoC全体の性能を確認しよう

例えば、IntelはNPUだけでなく、CPUとGPU含めたSoC全体のTOPS値は120TOPSとしています。
ソフトウェア側で必要とされるAI機能はそれぞれ異なり、主にAIの推論で多用される整数演算性能だけでなく、GPU側の浮動小数点演算機能などを活用する場合などにより性能が高いことをアピールしています。
AMDはその浮動小数点演算のFP16よりも高性能が期待できる、新しいBlock FP16という演算機能を実装したりしています。

AI関連機能だけでも最低基準は満たしつつ、それぞれのアプローチがあり、今後ソフトウェア側がどうこれを活用していくかによって、どのNPU、SoCがよりAI関連で良い性能を出せるかは変わっていきますが、AI関連は状況がすぐに変化するので、次の世代ではまた別の見方が必要になります。

SoCの違いとバッテリー駆動時間

AI関連以外で、PCとしての基本的性能で2024年から特に注目されるのがバッテリー駆動時間です。

QualcommのSnapdragon Xシリーズは、低消費電力動作が重要なスマートフォン用のSoCから発展したもので、バッテリー駆動時間が長いことが特徴です。

IntelのCore Ultra Series 2(200V)は、これに対抗し、従来製品からワット当たりパフォーマンスを大幅に向上させた製品です。

AMDRyzen AI 300シリーズも機能向上していますが、他に比べるとワット当たりパフォーマンスはそこまで高くはありません。

SoC違いをカタログスペックでバッテリー駆動時間を比較する

SoC以外は同一の仕様の製品でSoCの違いでメーカー公表のバッテリー駆動時間がどうなっているかを調べます。ここで書いている駆動時間は各社が公表しているビデオ再生での駆動時間で、普通に使った場合の、最も長時間使えるバッテリー駆動時間となります。

DELL XPS 13 Laptop

Core Ultra 7 155H 18時間
Core Ultra 7 256V 26時間
Snapdragon X Elite X1E-80-100 27時間

ASUS Vivobook S 15

S5507

Snapdragon X Elite 12C 18時間

M5506

AMD Ryzen AI 300 17時間
AMD Ryzen 8000 14時間
AMD Ryzen 7000 14時間

ASUS Vivobook S 14 S5406

Core Ultra 5 226V 27時間
Core Ultra 9 185H 16時間

Acer Swift 14 AI

Core Ultra 7 258V 29 hours
AMD Ryzen AI 9 365 27 hours
Snapdragon X 26hrs

SoCの進化によるバッテリー駆動時間

AMD Ryzen AI 300シリーズは、前世代のRyzen 8000シリーズに比べてバッテリー駆動時間が向上していることがわかります。
Intel Core Ultraもシリーズ2(200V)から前世代のシリーズ1に比べて大幅にバッテリー駆動時間が向上しています。

Intel Core Ultraシリーズ2はSnapdragon Xと比較しても同等程度のバッテリー駆動時間となっていることがわかります。
AMD Ryzen AI 300はそれに比べると短いようですが、そこまで見劣りはしていないので、各社そこまでの差が無いのかもしれません。

IntelAMDどちらも前世代に比べて大幅に向上しており、単純にAI機能ではなく、バッテリー駆動時間が長いPCとしても注目です。

AI PCの選び方 2024年末版

AI関連の機能が快適に使えるPC(パーソナルコンピュータ)が、2024年末に各社から出そろいます。
2024年末に出そろうのは、主に個人向け製品です。今後、2025年にかけて企業向け製品や、製品バリエーションも増えて行きますが、2024年末の段階でAI PCの元になるSoCが出そろいました。

PCメーカーによっては対応機種の投入が遅れるところもありますが、AI関連の製品という意味では機能的に出そろうので、購入を待つ必要はありません。

AI PCとは何か

2024年現在で一般的に言われているAIとは、AIの中の機械学習(Machine Learning)の中の、ディープラーニング(Deep Learning)関連でのAI機能です。

AI PCとはこのディープラーニング関連のAI機能が快適に使えるようになったPCというようなことです。従来のPCでもAI関連機能の利用は可能でしたが、AI機能では膨大な演算が必要で、その演算に対応する機能をPCに搭載したというような意味となります。

つまり、通常のPC機能に加えて、AI機能もPC内で処理できるようになったので、より高性能なPCというような意味で業界がマーケティング的に「AI PC」という名称をつけ始めたのが2023年頃からになります。

繰り返しになりますが、この「AI PC」は、今までのPCで出来たことはそのまま使えます。

AI PCの機能差

AI PCは今までのPC機能に加えて、AI関連機能がPCに追加されたような形です。

このAI関連機能は製品毎に機能差があります。

前述したディープラーニングには学習(training)と推論(inference)というフェーズがあります。

一般的に学習は大量のデータを演算して言語モデルのトレーニングを行います。この大規模な言語モデルをLarge Language Models、LLMと言います。一般的に学習は大規模なデータセンターなどのサーバー側で行います。

一般ユーザーが実際にAIを使うというのは推論です。
画像を生成したり、チャットボットで自然な会話をAIで行っているのは、学習でトレーニングした大規模言語モデルから推論して出力された物です。

学習と推論では行っている演算内容が全く異なり、学習はより高精度な演算、推論では精度はそこまで必用では無く、それぞれの演算内容も異なります。

例えば学習ではFP16という反精度浮動小数点演算を行い、推論ではINT8という8ビットの整数演算を大量に行ったりします。
実際にはAI関連の演算では他にも様々な演算が行われますが、このFP16、INT8などの大量の演算に特化した機能をPCに搭載しているのがAI PCとなります。

この機能を近年ではNPU(Neural Processing Unit)と呼び、主に推論での性能の指標となるのが1秒間に何兆回の演算が出来るかのTOPS(Tera Operations Per Second)で、2024年にAI PCと呼ばれる製品は40 TOPS以上、つまり、1秒間に40兆回のAI関連演算が可能となっています。

このTOPS値が各製品で異なったり、INT8なのかINT4なのかなど、対応する演算がそれぞれ異なります。

AI PCの種類

一般的にAI PCと呼ばれている物はいくつかの種類があります。

Copilot+ PC

MicrosoftWindows 11でAI関連機能を使える製品で、一定の基準を満たしたAI PCで利用出来る機能です。
Windows内にAI機能が組み込まれ、AIを使った様々な機能を使えるようになります。

NVIDIA GeForceなどを搭載するAI PC

NVIDIAGeForceは大規模なAIサーバーなどに使われているのと同じ機能を搭載しており、AI機能自体は非常に高いです。
一般的にゲーミングPCやワークステーションで採用されていますが、高性能ですが消費電力が高いという問題もあります。

TOPS値だと500以上の物もあり、一般のAI PCの数倍以上の性能となっています。

このGPUによるAI関連機能のサポートは今後進展し、Copilot+ PC機能も対応するようです。この場合は、例えば2023年頃に購入したゲーミングPCがCopilot+ PC機能に対応するようなこともあり得ますが実際には不明です。

Copilot+ PCではないWindowsのAI PC

一般的に2024年前半までに発売された製品で、NPUのTOPS値が40以下の製品です。
TOPS値が低いだけで、AI機能が使えないわけでは無く、パフォーマンスが若干低いだけです。

Macはどうなのか

Macに使われているApple SiliconにもNPU機能は搭載されていますが、Appleは2024年前半現在でAI PCとは謳っていません。

機能としてはあり、利用は出来、2024年秋に提供されるmacOS SequoiaではApple Intelligenceという機能を搭載し、本格的にAI関連機能をOSに搭載します。

SoCによる違い

SoCとはCPU、GPU、NPUなどが一つになったSystem on Chipの略です。

従来と同じx86系のIntelのCore Ultra、AMDRyzenシリーズが、AI PCのSoCです。

それとは別にスマートフォンなどで使われているARM系のQualcommのSnapdragon Xシリーズもあります。

2024年夏以降に発売された40TOPS以上のx86系SoCは、IntelのCore Ultra Series 2、AMDRyzen AI 300シリーズです。
ARM系のQualcommのSnapdragon Xシリーズは先行して6月から発売になっています。

それぞれx86かARMかのアーキテクチャの違い、CPU性能の違い、GPUの違いにくわえてNPUの性能が異なります。

allaboutkamikura.hateblo.jp

適当に書いてAIに清書させた PC売り場

どのAI PCを選ぶべきか

もしもAI PCを、自分で本格的にAI関連の開発や研究等の用途で使いたい場合、NVIDIAGeForceなどを搭載したゲーミングPCやワークステーションが適していますし、クラウドなどを組み合わせる必用もあります。

一般的にAIは、提供された機能を使う方が多いと思います。何らかのAI関連ソフトを活用して、業務を効率化したいとか、AI機能を使って何かを創作するような用途です。

その場合は、その製品で使えるAI機能が十分かなどを確認の上で、PCとしての機能を比較検討します。

AI性能自体は、今後も新しいSoCが出てくれば一気に向上しますが、その向上幅は従来のCPUなどの性能向上よりも高いです。何年か待ったら落ち着くという事も当面見込めないので、今買って、数年使い、数年後により性能の高い物に乗り換えるという形になります。この乗り換えサイクルはかなり短くなるでしょう。

その頃にはソフトウェア含めた、より使い勝手の良い物が登場していると期待しましょう。

唯一待つ必要があるのは特定メーカー、ブランドで自分が狙っているSoC搭載モデルが出るのを待つようなケースです。

例えばA社のBブランドの、CのSoCを搭載しているモデルが出てこないから、発売されるのを待つようなケースになります。この場合、2025年前半まで待たないといけないようなケースも出てくるでしょう。

具体的なAI PCの選び方

大きく分けるとアーキテクチャで2つ、SoCで3つに分けられます。Macを入れるとSoCでは4つです。

QualcommのSnapdragon Xシリーズ搭載モデルは、バッテリー駆動時間が従来のIntelAMDのSoC搭載より長いなどの特徴があります。CPUのアーキテクチャが従来のx86とは変わるので、従来のソフト、周辺機器との互換性問題があります。

IntelのCore Ultra Series 2(200Vシリーズ)搭載モデルは、バッテリー駆動時間が従来より大幅に改善されており、Snapdragon XよりCPU、NPU性能も高く、バッテリー駆動時間も長いとIntelはしています。

AMDRyzen AI 300シリーズは、同社の3世代目のAI対応SoCで、IntelのCore Ultra Series 2よりも先行して発売されています。

2024年中旬現在、従来のPCとの互換性を考えると、Intel Core Ultra Series 2か、AMD Ryzen AI 300 Series搭載モデルを選ぶのが無難です。

バッテリー駆動時間が長いのはIntel Core Ultra Series 2です。

バッテリー駆動時間が長いAI PCを選ぶならIntel Core Ultra Series 2搭載モデルを選ぶのが無難でしょう。

Snapdragon Xシリーズ、AMD Ryzen AI 300 Seriesを選ぶ場合は、各製品の機能が自分の利用環境に、より適しているかで選ぶのがいいでしょう。

ROG Ally X (2024) 大幅改良で完成度を高めたポータブルゲーミングPC

ポータブルゲーミングPCという、小型軽量でゲームが楽しめるPCというジャンルがあります。
小型の画面の左右にコントローラーを配置して、PCゲームをゲーム専用機のように遊べる物で、ほとんどはOSにWindowsを採用しているので、ゲーム以外にも普通のオフィスソフトその他の操作も可能です。

各社からこのカテゴリの製品が出ていますが、単純に気軽にゲームを楽しめる事を中心に考えた製品としてみると2023年春に登場したROG Allyはかなり完成度が高い製品でした。

AMDASUS

ROG Allyシリーズに搭載しているSoC(CPUやGPUのこと)はAMDRyzen Z1シリーズで、AMD Zen 4、AMD RDNA 3 グラフィックを採用し、ポータブルゲーミングPCながらかなり高性能のSoCで、なぜかいまだに他社からの採用機がほぼありません。他の搭載搭載例はLenovo Legion Go。

この、ASUSAMDの最新プロセッサを即採用できている理由は不明ですが、2024年に5月発表されたCopilot+ PCに対応するAMD Ryzen AI 300シリーズもZenbookやProArtなどの各モデルで採用されており、ASUSAMDの関係がかなり良好なことがわかります。

ASUS ROG Ally X

ROG Allyの課題点

当初から完成度が高かったROG Allyですが、小型筐体にするためか、いくつかの不満点もありました。
ストレージモジュールがM.2 2230という小型の物、バッテリー容量も少ない、ASUSの独自規格ROG XG Mobileはあるが、汎用のUSB端子が1つだけなど。

小型だからしょうがない、次の機種に期待しようと思っていた方も多かったと思います。

その次の機種はAMDが出すかわからないRyzen Zシリーズの、次のSoC採用機種などではと思っていた方も多いでしょう。

www.youtube.com

1年後に出てきた進化モデルROG Ally X

そんなROG Allyの進化モデル ROG Ally X (2024) RC72LA が、初代モデルの1年後に登場しました。

1年後に改良モデルが出てきたことも驚きですが、それよりもその改良が内部のかなりの部分に及んでいる点が更なる驚きでした。

通常、このような改良は1世代前から少しだけ仕様が変わる程度の物が大きいですが、内部構造含めてすべてが新しくなったような改良です。
SoC自体はAMDRyzen Z1 Extremeで変わっていませんが、内部構造、課題としてあった部分がかなり改良されています。

大きな変更点は以下の4点です。

ASUS Ally X 2024

メモリが24GBに強化

改良のポイントはいくつかありますが、メモリが16GBから24GBになったのは、この手のゲーミングPCでは大幅なパフォーマンス強化につながる改良点です。
一般的なゲーミングPCのメモリ量は16GB程度からが基準となっていると思いますが、これにくわえて、ビデオカードに搭載しているビデオメモリ8GBなどがあります。

AMDRyzen Z1シリーズのビデオメモリはメインメモリと共有するため、メインメモリが16GBだと、例えばここからビデオメモリを4GB使うと、メインメモリの実質的な使用量が12GBになってしまいます。
つまり、同じ16GBで、同じCPU、グラフィック性能のゲーミングPCと比較すると実質的なメモリ量が少ないので、全体的なパフォーマンスは落ちてしまうということです。

今回のモデルはメモリ量が24GBになり、さらにそのメモリもLPDDR5-6400からLPDDR5X-7500へとメモリ自体が高速化され、容量と速度面での大幅な改良が行われました。

前述した例ではメインメモリが24GBあれば、ビデオメモリを8GBつかっても、メインメモリは16GBあるという状態になります。

ストレージが1TBに倍増

旧モデルのストレージは512GBでした。
最近のPCゲームは大量にストレージを使う物が多く、1つのゲームで100GB使うような事もよくあります。システムで100GB使っていた場合、100GBの容量のゲームは4つしか入らないことになり、全く余裕がありません。

このようなポータブル製品の場合、内部のストレージには小型のストレージモジュールを採用するのが通常で、旧モデルもM.2 2230という長さ30mmのストレージモジュールを採用していました。
この短いモジュール用のストレージ自体バリエーションが少なく、大容量にした場合は高価になりすぎるなどいくつかの問題があります。

今回の最新モデルではストレージに使うモジュールがM.2 2280になりました。つまり、一般的なパソコンで使われているのと同じ80mmの長さのモジュールになった事で、より低コストに大容量化が出来るということです。

例えば、このサイズだと4TBなどの選択肢も現実的ですが、この製品自体はコスト的にも無難な1TBのモジュールが採用されています。

注目なのが、ASUSはなぜか保証が外れても、自分でストレージモジュールを交換して大容量化したいユーザー向けの機能を他モデルでも展開している点です。

ストレージ用の端子が2つあるとか、分解が比較的簡単にできるような機能を最新の各モデルでアピールしています。このモデルでもストレージを自己責任でより大容量に出来る事を公表しており、より使い込みたいようなユーザーに刺さる製品が増えています。

バッテリー容量が倍増

従来モデルは40Whのバッテリーでしたが、今回のモデルでは80Whのバッテリーとなっています。

単純にバッテリー容量が倍増したことで、駆動時間が約2倍に増える事になります。それでもPCゲームはどうしても消費電力が高いため、一般的なゲーミングノートPCでもバッテリー駆動時間は課題です。

従来モデルでは設定やゲームなどにもよりますが、AAAなどの大作ゲームの場合は、おおむね2時間程度バッテリー駆動で遊べるくらいの駆動時間でした。もちろん、パフォーマンスをそれほど消費しないゲームならもっと伸びますが、正直長いとは言えない駆動時間です。

今回のモデルではバッテリー容量が倍増したことで、これが3時間台になるような形になります。連続して2時間以上、本体を手に持って操作するプラットフォームでゲームを遊ぶと、かなり疲労感があるでしょうから、このくらいの駆動時間があればとりあえずの及第点が与えられるのではと思います。

USB Type-Cが2ポート

汎用USB端子が倍増

従来モデルでは汎用の端子はUSB 3.2対応のUSB Type-Cが1つだけで、他にはASUSの独自インターフェースROG XG Mobileが用意されていました。
ROG XG Mobileは対応機器を持っている人にはうれしい対応ですが、ユーザーはそれほど多いわけでもなく、それよりも他の端子があった方が利便性は上がります。

今回のモデルではUSB Type-C端子が2つになりました。1つはUSB3.2 対応、もう1つはUSB4対応です。

これで、例えば外部出力のためにディスプレイをつなぎながら給電するようなことが簡単にできるようになりました。
従来同じことをやるには、給電とディスプレイできる機器が必要でしたが、そのような必要も無くなります。

もちろん、他の周辺機器への接続も簡単になります。

機能向上での欠点は

内部構造含めて全体がかなり変わった結果、どこかに問題も出てきそうですが大きな問題はありません。

強いて言うとサイズが大きくなり、重量が重くなったことでしょうか。

旧 280.0mm×111.38mm×21.22~32.43mm 608g
新 280.6mm×111.3mm×24.7~36.9mm 678g

厚み方向が1割ほど増えて、重量も1割ほど増えました。

重くなったことで従来モデルのユーザーからは不満も出そうですが、このくらいの重量増でバッテリー駆動時間が倍増しているなら、がまんできる範囲ではと思います。

実際に持った感じでは確かに多少重くなりましたが、個人的には気になるレベルではありません。

ASUS Ally X

実際の使い勝手

ポータブルゲーミングPCは画面の左右にコントローラーが配置され、PCゲームでの各キーの割り当てがそれぞれのボタンに対応するようになります。

これを設定するのが、内蔵のROG関連ソフトで、それ以外の各種設定もROGシリーズと同じようにここで可能です。

初めてこの手の機器を使う場合、どのゲームの何のキーがどこに割り当てられているかに慣れるまでが時間がかかると思います。
普段、キーボードとマウスで慣れていたゲームのキーが左右のボタンに割り当てられますが、個人的には慣れるまでかなり時間かかりました。

それさえ何とかなれば、いつでもどこでもゲームを遊べます。その時に気になるのが発熱や、廃熱のファンの音ですが、小型の筐体に詰め込まれたわりにこれらの問題はほとんど気にならないレベルです。
どのようなゲームをどんな設定でどのくらい遊ぶかによりますが、コントローラーで遊んでいて問題を感じることはありませんでした。

また、ゲームで遊んでいるとついつい力が入ってしまいますが、筐体の剛性面でも問題ありません。

ヘッドフォンを使わず本体内のスピーカーでゲームを遊んでもスピーカー品質に問題がなく、前述の廃熱のファンの音も大きくはないので、総合的なゲームを遊ぶ快適さという点で問題になることはありません。

一つ問題があるとすると、画面が7インチということで、27インチなどのディスプレイで、マウスを使った操作に比べて見にくい、細かな操作が難しいことくらいでしょうか。
このあたりはプラットフォームの違いなので、自分がどこまで妥協できるかでしょうか。

ポータブルゲーミングPCとしてROG Ally X(2024)は買いなのか

2024年8月のこの原稿執筆時点で、各種キャンペーンなどを除くと、旧モデルが約9万円から、新モデルは約14万円です。

この価格差をどう見るかですが、メモリ、ストレージ、バッテリなど主要機能が大幅強化されて、約5万円の差は厳しい物の、ゲーミングPCとみると14万円というのはかなりお買い得です。

旧モデルの9万円というのが安すぎるのですが、改良点は気にならない、そこまでPCゲームにはまっていないなら、安すぎる旧モデルで気軽にPCゲームを遊ぶというのもありでしょう。

14万円という価格は、デスクトップPC用のそこそこいいビデオカードくらいの価格です。
この価格でディスプレイなど含めたゲーミングPC一式がそろうならかなりお買い得と言えるでしょう。

コントローラー関係含めて、各種設定が出来る専用ソフトもしっかりしており、普段PCゲームをマウスとキーボードで遊んでいる人でも、多少慣れさえすれば左右のコントローラーで遊べるようになります。

常に机の上のゲーミングPCが遊べる環境にないが、気軽に本格的にPCゲームを遊びたいなら、新モデルのROG Ally Xは細かな点が改良されたお得な製品です。

rog.asus.com

 

AI小説 ムガル帝国

Generative AI(生成AI)は小説も書けるらしいので、GoogleのGemini Advancedに史実のムガル帝国を小説としてまとめさせてみました。

それっぽい内容を章ごとに小説にするようなプロンプトを入力する。というのを繰り返して、ムガル帝国誕生から衰退までを1つの物語風に作ってみました。
同じような事を繰り返している部分もあります。プロンプトを上手く調整すれば繰り返さないようにも出来たでしょうが、修正させるのも面倒なのでそのままにしました。

最後に、現代も残るムガル帝国時代の建築などの見所も架空の人物が調べるという架空物語で作らせています。

中身はAIが作ったそのままです。そのためどこかで権利侵害があるかも知れません。

第1章 サマルカンド

中央アジアの古都サマルカンド。かつてティムールが築き上げた壮麗な都も、今は往時の輝きを失い、黄昏の色に染まっていた。広大なレギスタン広場に響くのは、商人の呼び声と、旅人の足音だけ。ティムール朝の栄華は遠い過去となり、中央アジアは再び群雄割拠の時代へと逆戻りしていた。
若きバーブルは、サマルカンドの片隅にある質素な屋敷で、憂いに沈んでいた。彼はティムール朝の末裔として、この地を統治する夢を抱いていたが、現実は厳しかった。強大なウズベク族が中央アジアの大部分を支配し、バーブルの勢力は風前の灯火。祖父ティムールのような英雄になることを夢見る彼にとって、それは耐え難い屈辱だった。
「もはや、この地にとどまる意味はないのかもしれない」
バーブルは、窓の外に広がる夕焼けを見つめながら、そう呟いた。彼の心は、新たな地での再起を切望していた。だが、どこへ行けばいいのか。進むべき道は見えず、不安と焦燥が彼の心を蝕んでいく。
そんなある日、バーブルは、インドから来た商人の話を耳にする。
「インドは、豊かな大地と数多の王国がひしめく宝の山。しかし、今は統一された支配者がおらず、各地で争いが絶えない。もし、力ある者が現れれば、インド全土を支配することも夢ではないだろう」
商人の言葉は、バーブルの心に火を灯した。インド、それは未知なる大地。だが、同時に無限の可能性を秘めた地でもあった。バーブルは決意した。インドを目指し、新たな帝国を築くことを。
バーブルは、わずかな手勢を率いて、険しい山脈を越え、広大な砂漠を横断し、ついにインドの地を踏んだ。そこは、中央アジアとは全く異なる世界だった。豊かな自然、多様な文化、そして、数え切れないほどの王国。バーブルは、この地で自らの運命を切り開くことを誓った。
しかし、インドでの道のりも平坦ではなかった。各地の王たちは、バーブルの勢力を警戒し、彼を排除しようと画策した。バーブルは、幾度となく窮地に立たされながらも、持ち前の勇気と知略で困難を乗り越えていった。彼は、インドの人々の心をつかみ、信頼を勝ち得るために、公正な統治と寛容な政策を推し進めた。
そして、1526年、運命の戦いが訪れた。パーニーパットの戦いで、バーブルは、数で勝るロディー朝の軍勢を打ち破り、デリーを制圧した。ムガル帝国の誕生である。バーブルは、ついにインドの支配者となったのだ。
ムガル帝国の建国は、バーブルにとって新たな挑戦の始まりでもあった。彼は、インドの多様な文化と宗教を尊重し、イスラム教徒とヒンドゥー教徒が共存できる社会を目指した。彼の統治は、インドに平和と繁栄をもたらし、ムガル帝国は、その後数世紀にわたってインド亜大陸を支配する大帝国へと発展していく。
バーブルは、中央アジアでの挫折を乗り越え、インドの地で新たな歴史を刻んだ。彼の物語は、勇気と希望、そして不屈の精神の象徴として、今も人々に語り継がれている。

第2章 パーニーパット

デリーの喧騒は、帝国の黄昏を嘲笑うかのように、今日も容赦なく続いていた。ロディー朝の宮殿は、かつての壮麗さを失い、その壁には亀裂が走り、床には埃が積もっていた。スルタン、イブラーヒーム・ロディーは、豪奢な玉座に深く沈み込みながらも、その表情は曇っていた。
「もはや、この国は風前の灯火…」
彼は独りごちた。彼の言葉は、宮廷内に蔓延する不安と諦念を如実に表していた。地方の領主たちは、中央政府の弱体化に乗じて、次々と独立を宣言。かつて強大だった帝国は、今や崩れ行く砂の城と化していた。
一方、デリーから遠く離れたラージャスターン地方。灼熱の太陽が容赦なく照りつける荒野に、誇り高きチットールガル城が聳え立っていた。この城は、ラージプート族の不屈の精神の象徴であり、彼らの独立の砦であった。
城内では、若き指導者、ラーナ・サンガが、鋭い眼光で地図を見つめていた。彼の心には、燃えるような野望が渦巻いていた。
ロディー朝はもはや我々を守ることはできない。今こそ、我々ラージプート族が立ち上がり、この国を統一すべき時だ!」
ラーナ・サンガの言葉は、臣下たちの心を震わせた。彼らは、彼のカリスマ性に惹かれ、その下に集結した。ラージプート族の誇りと、インド統一への夢が、彼らの心を一つにした。
しかし、ラーナ・サンガの野望は、容易に達成できるものではなかった。各地のラージプート族は、互いにいがみ合い、一枚岩になることが難しかった。さらに、北からは新たな脅威が迫っていた。
中央アジアから来た征服者、バーブル。彼は、ティムール朝の末裔を自称し、インドの地を征服することを夢見ていた。彼の軍勢は、瞬く間に北インドを席巻し、ロディー朝を追い詰めていった。
ロディー朝の宮廷では、バーブルの侵攻の報に、人々は恐怖に震えていた。イブラーヒーム・ロディーは、最後の力を振り絞り、軍を召集したが、もはや大勢は決していた。
1526年、運命の戦いが訪れた。パーニーパットの平原で、ロディー朝バーブルの軍が激突した。数では勝るロディー朝だったが、バーブルの巧みな戦術と火器の前に、なすすべもなく敗北した。イブラーヒーム・ロディーは戦死し、ロディー朝は滅亡した。
ラーナ・サンガは、バーブルの勝利に危機感を抱いた。彼は、各地のラージプート族に呼びかけ、連合軍を結成した。そして、1527年、カーヌアの戦いで、バーブルと激突した。
戦いは壮絶を極めた。ラージプート族の戦士たちは、勇敢に戦い、バーブル軍を苦しめた。しかし、バーブルの火器と騎兵の突撃の前に、次第に劣勢に追い込まれていった。ラーナ・サンガ自身も重傷を負い、戦場を離脱せざるを得なかった。
カーヌアの戦いは、バーブルの勝利に終わった。ラージプート族の抵抗は鎮圧され、北インドバーブルの支配下に置かれた。ムガル帝国の誕生である。
ムガル帝国の誕生は、インドの歴史に新たなページを開いた。しかし、それは同時に、多くの血と涙の上に築かれたものでもあった。ロディー朝の滅亡、ラージプート族の抵抗、そして、数え切れないほどの犠牲。それらは、新たな時代の到来とともに、歴史の闇に葬り去られていった。
それでも、人々の心の中には、かつての栄光と誇りが、かすかな光のように残り続けていた。それは、いつか再び、この大地に平和と繁栄が訪れることを願う、人々の祈りのようなものだった。

第3章 ムガル帝国

デリーの空は、今日も鉛色の雲に覆われ、まるで帝国の行く末を暗示しているかのようだった。ロディー朝の宮殿は、かつての輝きを失い、ひび割れた壁からは冷たい風が吹き込んでいた。スルタン、イブラーヒーム・ロディーは、玉座に深く腰掛けながらも、その心は安らぎを知らず、絶えず不安に苛まれていた。彼の耳には、遠くから聞こえてくる不穏な足音が、まるで死の鐘のように響いていた。
一方、遥か彼方のカーブルの地では、若き獅子、バーブルが、燃えるような野心と希望を胸に、インドの地を見つめていた。ティムール朝の末裔である彼は、祖父ティムールの偉業を心に刻み、自らの手でインドを統一し、新たな帝国を築くことを夢見ていた。彼の瞳には、未来の栄光が輝き、その手には、運命の剣が握られていた。
1526年、歴史の歯車が大きく動き始めた。パーニーパットの平原は、両軍の激突により血で染まり、大地は悲鳴を上げた。バーブルの軍勢は、まるで嵐のようにロディー朝の軍を飲み込み、イブラーヒーム・ロディーは、誇り高きスルタンとして戦場に散った。バーブルの勝利は、新たな時代の幕開けを告げる fanfare のようだった。
デリーに入城したバーブルは、歓呼の声に迎えられ、スルタンの座に就いた。ムガル帝国の誕生である。しかし、彼の前には、茨の道が待ち受けていた。ラージプート族をはじめとするヒンドゥー勢力は、異教徒の支配に激しく抵抗し、各地で反乱の狼煙が上がった。帝国の統一は、容易な道のりではなかった。
バーブルは、類まれなる武勇と知略を駆使し、反乱軍を鎮圧していった。彼は、ただ武力で支配するのではなく、イスラム教徒とヒンドゥー教徒の融和を図り、新たな秩序を築こうとした。彼の心には、平和と繁栄への願いが燃えていた。
しかし、無情にも、彼の治世は長くは続かなかった。1530年、バーブルは病に倒れ、志半ばでこの世を去った。彼の死は、帝国に深い悲しみをもたらしたが、彼の遺志は、息子フマーユーンに受け継がれた。
ムガル帝国の誕生は、インド亜大陸の歴史に燦然と輝く新たな章を刻んだ。バーブルが開拓した道は、その後、アクバル、シャー・ジャハーン、アウラングゼーブといった偉大な皇帝たちによって、さらに大きく、華やかに広げられていく。彼らの治世は、インドに黄金時代をもたらし、芸術、文化、建築など、あらゆる分野で輝かしい成果を残した。
そして、その繁栄の礎には、常にバーブルの勇気と情熱、そして夢があった。彼は、インドの地で自らの運命を切り開き、新たな時代を創造した英雄として、永遠に人々の記憶に刻まれるだろう。彼の物語は、希望と挑戦、そして不屈の精神の証として、後世に語り継がれていくに違いない。

第4章 アクバル大帝

1526年、パーニーパットの平原は血と硝煙の匂いに包まれていた。若き征服者バーブルは、ロディー朝の軍勢を打ち破り、インドの地への第一歩を踏み出した。しかし、彼の勝利は、新たな苦難の始まりでもあった。
デリーを制圧し、ムガル帝国を建国したバーブルだったが、彼の支配は脆く、各地で反乱が頻発した。特に、ラージプート族をはじめとするヒンドゥー勢力の抵抗は激しく、バーブルは常に戦場に身を置くことを余儀なくされた。
「インドは、私が想像していた以上に複雑な国だ」
バーブルは、疲れ切った体を引きずりながら、そう呟いた。彼は、中央アジアでの経験を頼りにインドを統治しようとしたが、その試みはことごとく失敗に終わった。インドの多様な文化、宗教、そして複雑な社会構造を理解することは、容易ではなかった。
バーブルの死後、帝国は息子のフマーユーンが継承したが、彼の治世は内紛と混乱に満ちていた。フマーユーンは、アフガン勢力に敗れ、一時的にインドを追放される憂き目にも遭った。
しかし、フマーユーンには、聡明で勇敢な息子がいた。アクバルである。彼は、父フマーユーンの失地回復に貢献し、若くしてムガル帝国の皇帝に即位した。
アクバルは、祖父バーブルや父フマーユーンの失敗から多くのことを学んでいた。彼は、武力による支配ではなく、寛容と融和の政策を推し進めた。ヒンドゥー教徒を積極的に登用し、彼らの文化や慣習を尊重した。
特に、アクバルが廃止した「人頭税(ジズヤ)」は、ヒンドゥー教徒の心を大きく動かした。この税は、イスラム教徒以外の住民に課せられるもので、長年にわたりヒンドゥー教徒の不満の種となっていた。アクバルのこの決断は、ムガル帝国の安定と繁栄に大きく貢献した。
アクバルは、宗教的な寛容だけでなく、文化や芸術の振興にも力を注いだ。彼の宮廷には、様々な宗教や民族の学者、芸術家、音楽家が集まり、活発な議論や創作活動が行われた。
アクバルの治世は、ムガル帝国の黄金時代と呼ばれ、インドは平和と繁栄を謳歌した。彼の政策は、後のムガル帝国の皇帝たちにも受け継がれ、帝国の長期的な安定に繋がった。
アクバル大帝の物語は、困難を乗り越え、多様性を尊重することで、真の繁栄を築くことができることを教えてくれる。彼は、武力ではなく、知性と寛容さで帝国を統治し、インドの歴史にその名を刻んだ。彼の偉業は、現代にも通じる普遍的な価値観を示しており、多くの人々に inspiration を与え続けている。

Adobe Fireflyが細密画で生成した繁栄したムガル帝国の市民生活

第5章 タージマハル

ムガル帝国の黄金時代、アクバル大帝の治世は、インド全土に平和と繁栄をもたらした。宗教的な寛容政策、中央集権化、そして文化振興は、帝国をかつてない隆盛へと導いた。しかし、その輝かしい時代は、次の世代へと受け継がれる中で、徐々にその影を濃くしていくことになる。
アクバルの孫、シャー・ジャハーンが帝位を継承した時、帝国は既に盤石な基盤を築いていた。シャー・ジャハーンは、祖父の偉業をさらに発展させようと、壮大な夢を抱いた。それは、美と芸術で帝国を彩り、後世に残る偉大な建築物を建設することだった。
シャー・ジャハーンの治世は、まさに建築と芸術の黄金時代となった。彼の情熱は、数々の壮麗な建造物を生み出した。中でも、愛妃ムムターズ・マハルへの永遠の愛を込めて建てられたタージ・マハルは、その白亜の美しさで世界中の人々を魅了し、今もなおムガル帝国の栄華を物語っている。
紅城やデリーにあるジャーマー・マスジッドのような壮大な建造物も、シャー・ジャハーンの時代に建設された。宮廷では、ペルシャやインドの伝統を融合させた独自の文化が花開き、詩歌、音楽、絵画など、あらゆる芸術が隆盛を極めた。
しかし、シャー・ジャハーンの美への飽くなき追求は、次第に帝国の財政を圧迫し始めた。莫大な費用をかけた建築事業は、民衆の生活を苦しめ、不満を募らせる結果となった。
さらに、シャー・ジャハーンの後継者争いは、帝国を内乱へと導いた。彼の息子たちは、帝位を巡って互いに争い、血で血を洗う骨肉の争いを繰り広げた。その結果、帝国は弱体化し、かつての輝きは失われていった。
シャー・ジャハーンの晩年は、孤独と後悔に満ちていた。彼は、息子アウラングゼーブによって幽閉され、タージ・マハルを窓から眺めることしかできなかった。かつて彼が愛した美と栄華は、遠い過去の幻影と化した。
アウラングゼーブが帝位を継承すると、帝国は再び厳しい時代を迎えた。彼は、祖父アクバルの寛容政策を放棄し、イスラム教の厳格な解釈に基づく統治を推し進めた。ヒンドゥー教徒への弾圧は、各地で反乱を招き、帝国の安定を揺るがした。
アウラングゼーブの治世は、ムガル帝国の衰退の始まりを告げるものとなった。彼の死後、帝国は急速に弱体化し、地方勢力の台頭やイギリスの進出により、その領土は縮小していった。
かつてシャー・ジャハーンが夢見た美と栄華の世界は、遠い過去のものとなった。彼の建築物は、今もなおその美しさを保っているが、それは同時に、帝国の栄枯盛衰を静かに物語っている。
ムガル帝国の歴史は、栄光と挫折、美と悲劇が織りなす壮大なドラマである。シャー・ジャハーンの時代は、その中でも特に鮮烈な光と影を放っている。彼の建築物と文化遺産は、今もなお人々を魅了し続けているが、同時に、その背後にある歴史の教訓を私たちに語りかけている。
美と繁栄は、永遠に続くものではない。真の偉大さは、困難を乗り越え、未来を見据えることができるかどうかにかかっている。ムガル帝国の歴史は、私たちにそのことを教えてくれる。

第6章 ジズヤ

タージ・マハルの白亜のドームが、夕日に赤く染まる。その窓辺に佇む老いた皇帝、シャー・ジャハーンは、かつての栄華を偲びながら、深い溜息をついた。彼の視線の先には、広大なムガル帝国が広がっていたが、その輝きは既に色褪せ始めていた。
シャー・ジャハーンの治世は、美と芸術の黄金時代だった。タージ・マハルをはじめとする壮麗な建築物、宮廷文化の爛熟、そして平和な日々。しかし、その繁栄の裏側には、帝国の衰退を招く種が静かに蒔かれていた。
シャー・ジャハーンの息子たちは、父の後継者争いに明け暮れていた。中でも、信心深く厳格なアウラングゼーブは、他の兄弟たちを排除し、帝位を狙っていた。彼の野心は、帝国を新たな道へと導くことになる。
1658年、アウラングゼーブはクーデターを起こし、シャー・ジャハーンを幽閉、兄弟たちを殺害し、ついに帝位を手に入れた。彼の治世は、ムガル帝国の転換期となった。
アウラングゼーブは、祖父アクバル大帝の寛容政策を否定し、イスラム教の厳格な解釈に基づく統治を推し進めた。ヒンドゥー教寺院の破壊、人頭税の復活、そして非イスラム教徒への差別政策。これらの政策は、帝国の多様性を否定し、各地で反乱を招いた。
かつて平和だった帝国は、内乱と混乱に陥った。ラージプート族、マラーター族、シク教徒など、様々な勢力がアウラングゼーブの支配に抵抗し、帝国の統治能力は徐々に低下していった。
アウラングゼーブは、強大な軍事力で反乱を鎮圧しようとしたが、それは更なる反発を生み、帝国の財政を圧迫した。莫大な軍事費は、民衆の生活を苦しめ、経済の停滞を招いた。
一方、ヨーロッパ列強の進出も、ムガル帝国の衰退に拍車をかけた。イギリス東インド会社は、インド各地に拠点を築き、徐々にその影響力を拡大していった。彼らは、ムガル帝国の内紛に乗じ、各地の領主と同盟を結び、帝国の弱体化を加速させた。
アウラングゼーブの治世末期、ムガル帝国は既にその輝きを失っていた。かつての繁栄は、遠い過去の幻影と化した。アウラングゼーブ自身も、孤独と後悔の中で、その生涯を終えた。
彼の死後、ムガル帝国は急速に衰退していった。後継者争いは続き、中央政府の権威は失墜。地方勢力は独立を宣言し、帝国は分裂状態に陥った。そして、ついにイギリス東インド会社がインド全土を支配下に置くことになる。
ムガル帝国の衰退は、一つの時代の終わりを告げるものだった。それは、寛容と多様性を重視したアクバル大帝の理想が、アウラングゼーブの厳格な政策によって打ち砕かれた瞬間でもあった。
ムガル帝国の栄光と挫折は、私たちに多くの教訓を残している。真の繁栄は、多様性を認め、人々の心を一つにすることで初めて実現できる。権力と支配だけでは、真の平和と安定は得られない。
ムガル帝国の物語は、歴史の教訓として、現代にも通じる普遍的な価値観を私たちに問いかけている。

第7章 東インド会社

17世紀後半、ムガル帝国の首都デリー。アウラングゼーブ帝の治世は既に半世紀を超え、帝国はかつての輝きを失いつつあった。厳格なイスラム法に基づく統治は、ヒンドゥー教徒をはじめとする非イスラム教徒の反発を招き、各地で反乱が頻発していた。帝国の財政は逼迫し、民衆の不満は高まる一方だった。
一方、帝国の周辺では、新たな勢力が台頭していた。南インドでは、マラーター王国が勢力を拡大し、ムガル帝国の支配に公然と挑戦していた。マラーターの指導者シヴァージーは、ゲリラ戦術を駆使してムガル軍を翻弄し、瞬く間に英雄としてその名を轟かせた。
「我々は、もはやムガル帝国の支配に甘んじるつもりはない。インドは、インド人の手で統治されるべきだ!」
シヴァージーの言葉は、多くのインド人の心を捉え、マラーター王国は、ムガル帝国にとって最大の脅威となっていた。
さらに、帝国の東海岸には、ヨーロッパ列強が進出していた。中でも、イギリス東インド会社は、巧みな外交と商才で、インド各地に拠点を築き、その影響力を拡大していた。
カルカッタのイギリス東インド会社の商館では、若き商員ロバート・クライヴが、野心的な瞳でインドの地図を見つめていた。
「この豊かな大地は、我々イギリスのものとなるだろう。ムガル帝国は既に衰退しており、我々にとって絶好の機会だ」
クライヴは、ムガル帝国の内紛に乗じ、各地の領主と同盟を結び、徐々にその勢力を拡大していった。彼の戦略は、狡猾かつ冷酷で、時には武力行使も辞さなかった。
1757年、プラッシーの戦いで、クライヴ率いるイギリス東インド会社の軍隊は、ベンガル太守の軍勢を打ち破った。この勝利は、イギリス東インド会社がインドにおける覇権を握る第一歩となった。
ムガル帝国は、内憂外患に苦しみながらも、なおその威光を保っていた。しかし、プラッシーの戦いは、帝国の衰退を決定的なものにした。イギリス東インド会社は、ベンガル支配下に置き、莫大な富を手に入れた。彼らは、その富を元に、さらに勢力を拡大し、ムガル帝国を傀儡政権へと変えていった。
アウラングゼーブ帝の死後、ムガル帝国は、後継者争いによってさらに弱体化した。各地の領主は独立を宣言し、帝国は分裂状態に陥った。そして、1857年のインド大反乱を最後に、ムガル帝国は完全に滅亡した。
ムガル帝国の衰退とイギリス東インド会社の台頭は、インドの歴史における大きな転換点となった。それは、インドがヨーロッパ列強の植民地支配へと向かう道の始まりでもあった。
かつて栄華を誇ったムガル帝国は、歴史の闇へと消えていった。しかし、その遺産は、インドの文化、芸術、建築などに深く刻まれている。そして、その衰退の物語は、私たちに、権力と支配の儚さ、そして多様性と寛容の重要性を教えてくれる。

第8章 衰退

18世紀初頭、ムガル帝国の首都デリー。かつて世界を魅了した壮麗な都は、今やその輝きを失い、衰退の影に覆われていた。皇帝の名は、もはや権威の象徴ではなく、空虚な称号と化していた。
宮廷では、老いた皇帝ムハンマド・シャーが、無気力な瞳で玉座に腰掛けていた。彼の周りでは、佞臣たちが権力闘争に明け暮れ、帝国の未来など顧みる者はいなかった。かつての活気と熱気は失われ、宮廷は腐敗と堕落の温床と化していた。
「もはや、この帝国に未来はないのか…」
皇帝は、静かに呟いた。彼の言葉は、帝国の衰退を象徴するかのようだった。地方では、マラーター族やシク教徒などの勢力が台頭し、帝国の支配に公然と挑戦していた。帝国軍は弱体化し、もはや彼らの進撃を食い止めることはできなかった。
帝国の財政は破綻寸前だった。アウラングゼーブ帝の時代に拡大した領土を維持するための軍事費、そして宮廷の浪費が、帝国の経済を疲弊させていた。民衆は重税に苦しみ、各地で反乱が頻発していた。
一方、ヨーロッパ列強の進出も、帝国の衰退に拍車をかけた。イギリス東インド会社は、巧みな外交と商才で、インド各地に拠点を築き、その影響力を拡大していた。彼らは、ムガル帝国の内紛に乗じ、各地の領主と同盟を結び、帝国の弱体化を加速させた。
ベンガル地方では、イギリス東インド会社の商館長ロバート・クライヴが、野心的な計画を練っていた。彼は、ムガル帝国の衰退を好機と捉え、インド全土を支配下に置くことを夢見ていた。
1757年、プラッシーの戦いで、クライヴ率いるイギリス軍は、ベンガル太守の軍勢を打ち破った。この勝利は、イギリス東インド会社がインドにおける覇権を握る第一歩となった。ムガル帝国は、もはや彼らの前に立ちふさがることはできなかった。
デリーの宮廷では、皇帝はイギリスの傀儡と化していた。かつての栄光は、遠い過去の幻影と化した。宮廷は、もはや政治の中心ではなく、享楽の場と化した。皇帝たちは、酒と女に溺れ、帝国の未来など顧みることはなかった。
民衆は、重税と飢饉に苦しみ、各地で反乱が頻発した。しかし、帝国軍は弱体化しており、反乱を鎮圧することはできなかった。人々は、もはや皇帝に救いを求めることはなく、自らの力で生き抜くことを余儀なくされた。
ムガル帝国の衰退は、インドの歴史における大きな転換点となった。それは、インドがヨーロッパ列強の植民地支配へと向かう道の始まりでもあった。かつて世界を席巻したムガル帝国は、こうして静かにその幕を閉じた。
帝国の衰退は、多くの悲劇と苦難をもたらしたが、同時に、新たな時代の到来を告げるものでもあった。インドの人々は、植民地支配という試練を経験しながらも、やがて自らの手で独立を勝ち取り、新たな国家を建設していくことになる。
ムガル帝国の物語は、栄光と挫折、希望と絶望が織りなす壮大なドラマである。それは、私たちに、歴史の教訓と、未来への希望を同時に伝えてくれる。

第9章 インド大反乱

1857年、インド亜大陸は不穏な空気に包まれていた。ムガル帝国は既にその威光を失い、イギリス東インド会社が実質的な支配権を握っていた。しかし、人々の心には、かつての栄光と誇りが燻り続けていた。そして、その燻りは、やがて燃え盛る炎へと変わる。
舞台は、デリー郊外の小さな駐屯地、メーラト。イギリス東インド会社の兵士たちは、新型のエンフィールド銃の支給を受けた。しかし、この銃には、牛脂と豚脂が塗られた弾薬筒が使われていた。これは、ヒンドゥー教徒イスラム教徒にとって、深刻な宗教的タブーを犯す行為だった。
「我々は、神を冒涜する銃を使うことはできない!」
兵士たちの間には、怒りと不安が広がった。彼らは、イギリス東インド会社への不信感を募らせ、ついに反乱を起こした。メーラトの兵士たちは、上官を殺害し、デリーへと向かった。
デリーでは、老いたムガル皇帝バハードゥル・シャー2世が、不安げに事態を見守っていた。彼は、もはや実権を持たない傀儡皇帝だったが、それでも人々にとっては、ムガル帝国の象徴であり、希望の灯火だった。
反乱軍は、デリーを占領し、バハードゥル・シャー2世をインドの皇帝として擁立した。この知らせは、瞬く間にインド全土に広がり、各地で反乱が勃発した。農民、兵士、職人、そして王侯貴族までもが、イギリスの支配に立ち向かった。
「今こそ、我々は団結し、この国を取り戻す時だ!」
人々の叫びは、インド全土に響き渡った。彼らは、宗教の違いを超えて、共通の敵であるイギリスに立ち向かった。それは、インドの独立と自由を求める、壮大な闘いの始まりだった。
しかし、イギリス東インド会社は、強力な軍事力と組織力で反乱を鎮圧しようとした。各地で激しい戦闘が繰り広げられ、多くの血が流された。反乱軍は、勇敢に戦ったが、イギリス軍の近代兵器の前に、次第に劣勢に追い込まれていった。
デリーでは、バハードゥル・シャー2世が、イギリス軍に捕らえられた。彼は、ビルマへと追放され、ムガル帝国はここに完全に滅亡した。皇帝を失った反乱軍は、指導力を失い、各地で鎮圧されていった。
インド大反乱は、イギリスの勝利に終わった。しかし、それは同時に、インドの民族意識を目覚めさせるきっかけともなった。人々は、自らのアイデンティティと独立の重要性を再認識し、イギリスからの解放を求める運動へと繋がっていく。
ムガル帝国の終焉は、インドの歴史における大きな転換期となった。それは、数百年にわたるムガル帝国の支配に終止符を打ち、イギリスによる植民地支配の時代へと移行する象徴的な出来事だった。
インド大反乱は、多くの犠牲と悲劇をもたらしたが、同時に、インドの人々に勇気と希望を与えた。それは、自由と独立を求める闘いの炎を、決して消えることのないものにした。そして、その炎は、やがてインド全土を照らし、独立へと導く光となるだろう。

Adobe Fireflyで生成した帝国後、ムガル建築に訪れる研究者

その後のムガル帝国

1860年、デリー。かつてムガル帝国の首都として栄華を誇ったこの街は、今やイギリス東インド会社支配下にあり、その面影は薄れつつあった。しかし、それでもなお、デリーやアグラには、ムガル帝国の栄光を物語る壮大な建築物が数多く残されていた。
その日、デリーの喧騒を離れ、一組の馬車がゆっくりとアグラへと向かっていた。馬車の中には、イギリスから派遣された二人の建築研究者、ジョン・スミスとウィリアム・ブラウンが乗っていた。彼らは、ムガル帝国の建築様式を研究するために、インドへと派遣されたのだ。
「インドの建築は、我々ヨーロッパの建築とは全く異なる魅力がある。特に、ムガル帝国の建築物は、その壮大さと繊細さで、見る者を圧倒する」
ジョンは、興奮気味にウィリアムに語った。彼は、インドに到着して以来、ムガル建築の虜になっていた。
アグラに到着した二人は、早速、タージ・マハルへと向かった。白亜の大理石で造られた霊廟は、太陽の光を浴びて輝き、その美しさは、二人の息を呑むほどだった。
「これは、まさに奇跡だ!こんなにも美しい建築物が、この世に存在するとは…」
ウィリアムは、感動のあまり言葉を失っていた。彼らは、タージ・マハルを隅々まで観察し、その緻密な装飾や精巧な技術に感嘆の声を上げた。
翌日、二人は、アグラ城を訪れた。赤砂岩で造られた巨大な城塞は、ムガル帝国の権力と栄華を象徴する存在だった。彼らは、城内を歩き回り、謁見の間や庭園、そして宮殿の跡を見て回った。
ムガル帝国の皇帝たちは、ここでどんな生活を送っていたのだろう…」
ジョンは、感慨深げに呟いた。彼は、かつてこの城で繰り広げられたであろうドラマや人間模様に思いを馳せた。
デリーに戻った二人は、レッド・フォートやジャーマー・マスジッドなど、ムガル帝国時代の建築物を次々と訪れた。彼らは、それぞれの建築物の特徴や歴史的背景を熱心に研究し、スケッチや写真、そして詳細な記録を残していった。
しかし、彼らの研究は、必ずしも順調に進んだわけではなかった。イギリス東インド会社の役人たちは、彼らの活動を快く思っていなかった。彼らは、ムガル帝国の遺産を研究することに、何の意味があるのか理解できなかったのだ。
ムガル帝国は既に過去のものだ。我々は、未来に向けて進むべきだ」
役人たちは、冷たく言い放った。しかし、ジョンとウィリアムは、彼らの言葉に耳を貸さなかった。彼らは、ムガル建築の研究こそが、インドの未来を築く上で重要な鍵になると信じていた。
二人は、研究を続ける中で、ムガル建築が、ペルシャ、インド、そしてヨーロッパの建築様式を融合させた、独自の美学を持っていることを発見した。それは、多様な文化が共存するインドという国の歴史を反映したものであり、まさにインドのアイデンティティそのものだった。
ジョンとウィリアムは、彼らの研究成果をイギリス本国に報告し、ムガル建築の重要性を訴えた。彼らの情熱は、次第にイギリス社会にも影響を与え、ムガル建築への関心が高まっていった。
そして、彼らの研究は、後のインド建築にも大きな影響を与えることになる。インドの建築家たちは、ムガル建築の伝統を再評価し、それを現代建築に取り入れるようになった。それは、インドの建築が、独自の進化を遂げるきっかけとなった。
ジョンとウィリアムのインドでの冒険は、ムガル帝国の栄光を後世に伝えるだけでなく、インド建築の未来を切り開く重要な一歩となった。彼らの物語は、文化遺産の保護と継承の重要性を私たちに教えてくれる。

デリー

クトゥブ・ミナール | 1193年〜 | イスラム支配の象徴、インド最古のミナレット。多様な建築様式の融合が見事。(異文化融合の初期事例)
アライ・ダルワーザ | 1311年 | クトゥブ・コンプレックス内の南門。イスラム建築の優雅さと力強さを体現。(初期イスラム建築の傑作)
トゥグルカーバード城 | 1321年〜 | トゥグルク朝の巨大な城塞都市。荒々しい石造りの城壁と廃墟。(トゥグルク朝の野心と衰退)
ローディー庭園 | 15世紀後半 | ローディー朝の庭園墓地。静謐な雰囲気と洗練された建築。(ローディー朝の文化と芸術)
フマユーン廟 | 1570年 | ムガル帝国廟建築の原型。ペルシャ建築の影響とインドの素材・技術の融合。(ムガル建築の黎明)
ラール・キラー (赤い城) | 1639年〜 | ムガル帝国の権力の象徴。壮大な城壁と宮殿群。繊細な装飾と幾何学模様。(ムガル建築の絶頂期)
ジャーマー・マスジッド | 1656年 | インド最大のモスク。赤砂岩と白大理石のコントラストが美しい。(ムガル建築の調和と均衡)
サフダル jung廟 | 1754年 | ムガル帝国後期の庭園墓地。繊細な装飾と左右対称の美しさ。(ムガル建築の晩年の輝き)

アグラ

タージ・マハル | 1632年〜 | ムガル建築の最高傑作。白大理石の霊廟。精緻な装飾と左右対称の完璧さ。(永遠の愛の証)
アグラ城塞 | 1565年〜 | ムガル帝国初期の軍事拠点。赤砂岩の堅牢な城壁と宮殿群。(軍事力と美の融合)
ファテープル・シークリー | 1571年〜 | アクバル大帝の幻の都。赤砂岩の宮殿とモスク。実験的な建築様式。(アクバル大帝の理想主義)
イティマード・ウッダウラー廟 | 1628年 | ムガル帝国初の白大理石建築。精緻な象嵌細工と庭園。(白大理石建築の先駆け)
アクバル廟 | 1605年〜 | アクバル大帝の霊廟。赤砂岩と白大理石の融合。壮大な門と庭園。(アクバル大帝の偉業を称える)
マリヤムの館 | 1605年頃 | アグラ城内にある宮殿。繊細な彫刻と幾何学模様。(ムガル宮廷の華麗な生活)
モતી・マスジッド (真珠モスク) | 1647年〜 | アグラ城内にある白大理石のモスク。シンプルながらも美しい。(ムガル建築の純粋さと静謐さ)
シカンドラ | 1613年 | アクバル大帝の墓所。融合的な建築様式と広大な庭園。(アクバル大帝の多様性を体現)

ジョンとウィリアムの総評:

ムガル帝国の建築は、ペルシャ建築の影響を受けながらも、インド独自の素材や技術、そして美意識を融合させた、他に類を見ない独自の様式を確立しました。その建築物は、帝国の権力と栄華を象徴するだけでなく、イスラム教とヒンドゥー教の文化が融合した、インドの多様性を体現しています。
デリー・スルターン朝の建築は、インドにおけるイスラム建築の基礎を築き、後のムガル建築にも大きな影響を与えました。その建築様式は、初期には簡素で力強いものでしたが、時代が進むにつれて、より洗練され、装飾的なものへと変化していきました。
これらの歴史的建造物は、インドの豊かな歴史と文化を物語る貴重な遺産です。私たちは、これらの建築物を保護し、後世に伝えていく責任があります。

実際のやりとり

初めに普通に聞いていたら、これを小説にしたら面白く読めそうなので、小説風にしてもらい、邪魔な部分だけを取り除いて章立てて小説風にしました。

以下のリンクがその時のプロンプトと回答です。

https://g.co/gemini/share/54b4134cc95e